5.死亡の被害

国の法的責任により奪われた被害者の命の区別は許されない

  • 1999年8月、32歳の息子から『勤務先で吐血をした』と電話があった。緊急入院し、緊急治療室に呼ばれ、B型肝炎の感染を告知された。翌日、主治医より『息子さんは、B型肝炎で肝硬変どころか、肝臓の3分の2が肝癌になり、腹水も溜まり、静脈瘤が何時破裂するかわからない。今の状況から見て、あと一週間の命と思われます・・・。』頭の中が真っ白になり、一瞬涙も出ませんでした。主治医は『腹水を抜いたり、意識がなくならないよう、あらゆる手段を取る』と言ってくれた。本人には、『肝硬変から肝癌にならないように治療しましょう』と。でも私達は、息子にどう接していいのか涙は止まらず、辛かった。回復することのない息子に出来るのは、『主人と2人で残された日々を大事に接して行こう』と決心して個室での24時間看病が始まった。息子は『肝臓よ負けないでくれ』と大きく腫れたお腹に手を置いたり…。湿疹や高熱が出たり、色々と症状が出た。一番心配していた吐血があり、私はつい大声で泣いてしまった。息子はかすれた声で『お母さん泣くなよ、最初の吐血の時は、もっと苦しんだから大丈夫』と息子に励まされた。気分の良い時には、色々と話もした。ある時病床の窓から空を見て、『何十年振りかな~こんなに空がきれいだと思ったのは・・・』。そして『お母さん長生きしてくれよ!』また『B型肝炎でも良いと言ってくれる人がいたら結婚したいよ』と涙ぐみ、親としては身をむしり取られるような辛い辛い思いだった。最後の言葉になってしまったが、『僕はいつまでもお母さんの子だよね!』と、唐突に言われた。終始息子の死を頭から除き、通常の会話、そして普段通りに接して25日間、1999年9月25日お彼岸に息子は旅立って行った。主人が、息子が亡くなってうつ病になり、2003年に3ヵ月間入院した。一生懸命育て、社会人になり『老後はちゃんと見るから心配するなよ』と何時も言ってくれ、これからと思っていた矢先、息子はB型肝炎になり、32歳という若さで将来を閉ざされてしまった。精神的・経済的にもどん底に落とされ、最悪の状況だった。
  • 夫が36歳、私が31歳の時に結婚した。夫は、高等学校卒業後、仏具関係の営業社員として働き、結婚を機に退社し、会社を作り独立した。親子三人は、楽しく、仲良く暮らしていた。ところが夫は、平成12年(2000年)11月に食道静脈瘤破裂により吐血し、手術をすることになった。そして、医者からB型ウィルスに因る肝硬変であること、そして肝硬変がその後肝癌に進行する病であることを知らされた。夫は勿論、私も、14歳であった長男も、大変ショックを受けた。夫は、微熱が続いては寝込むことが多くなり、体力を消耗して入院を繰り返すという状況になった。夫は亡くなる迄、通院は毎月1~2回、多い時には、10数日を超える月もあった。また、入院も度々行った。こうした状況だったので、夫の会社の売上は伸びず、私ども一家の家計は子の成長もあって、大変苦しいものだった。夫は、これまで苦労の連続だったが、今後は夫婦で旅行したり、また、長男が結婚することになれば、孫の誕生も楽しみだなどと私にそして親しい人に話していた。2008年7月になって、それ迄に感じたことがないほどの倦怠感を感じ、夫は検査入院し、そこで医師から、肝癌と告知された。夫は9月になると、これ迄の長い闘病生活の中でも経験したことのないほどの強い倦怠感と体中の発汗に襲われ、救急車で病院に搬送された。そして、同日、肝癌により亡くなった。夫は生前、自然を愛し、樹木や花の世話を楽しみとし、体調の良い時には、樹木や花の写真撮影することを喜びとしていた。そして、長男が就職し、家計も少し余裕が出てきたこれからは、夫の体調に気遣いながらではあるが、温泉旅行などを楽しみ、そして孫の誕生も楽しみにしていた。もはや、夫はこれらの楽しみを経験することは出来ないし。60歳で短い人生を閉じざるを得なかった夫の無念を考えると、今も涙を流さない日はない。
  • 2001(平成13)年7月ころ,母は,肝機能数値が悪化し,入院することになりました。ある日,私が帰宅したところ,父は,真っ赤な目で,「お母さんが,ガンになった。」と答えました。母は,まだ52歳です。私たちは,実際に母が肝ガンになったという現実を受け止めることができませんでした。医師からは,「ガンは小さいけれども,血管が集中している場所にできているため切除することはできない。余命は5年だ。」と告げられました。母は,エタノール注入療法と肝動脈塞栓術を受けました。エタノール注入療法はとても痛かったようで,男の人が何人も体の上に乗っかって力一杯体を押さえつけられたような痛さだったと言い、ぐったりしていました。2005(平成17)年1月,再び母にガンが見つかりました。そして,それ以降,母は,ガンが見つかるたびに入院を繰り返しました。私たちは,母にはガンが見つかったことを黙っていました。しかし,母は,父に詰め寄り,ガンであることを知りました。母は「ガンと共存しながら,長く生きられたらいいね。」と言っていました。2006(平成18)年ころ,医師から肝移植について話がありました。2000万円もの治療費がかかると言われました。しかし,ガンが他の臓器にも転移している可能性もあったため,最終的には医師から「移植はできない」と言われました。2007年4月,母は,ガンの治療のために入院しましたが,肺にまで転移していました。もう手の施しようのない状態でした。医師からは,母の命はあと3ヶ月から6ヶ月くらいだと言われました。母は,苦しそうな咳を一日中しており,夜も眠れない様子でした。また,吐き気も止まらない様子で,嘔吐を繰り返していました。父は,母を看病するために,定年より1年早く退職しました。残された時間を少しでも家族と一緒にすごせるように,母は退院し,自宅で療養することになりました。夏ころから,母の体調は,急激に悪化し,痩せていきました。姉の子を抱きかかえることすら出来ないくらい筋力も衰えていました。ひどい痛みを感じるようで,苦痛に顔をゆがませていました。母の最後の希望通り、家族そろって温泉に旅行に行きました。一晩中姉と私と交代で,母に付き添っていました。翌24日早朝でした。姉が母の体位を変えようと抱きかかえたところ,母が姉の腕を強く掴み,うわごとのように「先生呼んで。お願いね。」と言いました。そして,うなされていた母が急に静かになりました。母の目は,宙を見ていました。呼吸もしていませんでした。脈もありませんでした。すぐに救急車を呼びました。母は,旅館近くの病院に運ばれましたが,そこで死亡が確認されました。59歳でした。