4.肝ガンの被害

4−1.肝ガン罹患の衝撃と一変する生活

  • 私は、約10年間歯科医院で勤務して,平成14年に、独立開業することができた。親に頼らず、妻と自分の力で開業できたという誇らしい気持ちだった。客も増え順調だった。平成19年の5月に、おなかの少し右側が痛いのに気づいた。CT検査の結果、医師からは、肝臓に大きなガンがあり、血管が破裂する可能性があるので、早急に手術が必要だと言われた。私は、歯科医の仕事はとうてい続けられないと悟り、歯科医院を引き払うことを決めた。夜遅くまでカルテを整理した。歯科医院の開業費用をほとんど払い終わり、ようやくこれからというときだった。努力は全て水の泡になってしまったと思った。妻は私が仕事に区切りをつけている様子を見て、涙を流していた。私も涙が出た。
  • 3年前には、セロコンバージョンの状態になり、主治医から『ウィルスがかなり減ってきたので良好です』と言われ、私は、『これからは平穏な生活ができる!』と喜びました。その喜びも束の間の数ヵ月後、定期検査の結果で主治医から『肝臓癌が発症している』との告知を受け、晴天の霹靂だった。何故なら、肝機能が正常で、しかも肝硬変でもないのに一足飛びでガンが見つかったと言われても、俄かに信じられなかったからだ。
  • 平成17年6月に病院で検査を受けたところ既に肝臓に癌ができていることが分かった。癌の大きさは8㎝だった。癌が大きすぎて、切除手術はできなかった。このためカテーテルで癌に直接抗がん剤を注入する治療を2回受けた。入院は平成17年8月から20年5月まで5回した。現在(2008年7月)も1週間に一度、5時間をかけて抗がん剤の点滴を受け、3ヶ月に一度は精密検査を受けている。最近は抗がん剤の量も多く、点滴を受けた後は調子が悪い毎日だ。医者からは、絶対に風邪をひいてはいけないということで外出の時は必ずマスクをしている。出歩くこと自体がだんだん難しくなってきている。

4−2.肝ガン等の再発

  • 1年前、肝臓の3分の1を切除する手術を受けた。癌細胞は全て切除できたとの説明を受けた。…医師は癌の再発について、『癌の再発の可能性はゼロではない、それでも再発しなかったら、10年は生きられる』との説明を受けた。ところが今年の夏、定期検査をうけたところ、肝臓に黒い影が見つかった。私は再発しなければ10年は生きられるという医師の言葉にすがって、黒い影は癌ではない、癌のはずはないと何度も自分に言い聞かせた。エコー検査までの間、夜はなかなか寝付けず一度眠っても夜中には目が覚めてしまうという毎日を過ごした。とても仕事(個人タクシー運転)などはできなかった。そしてエコーの検査結果、黒い影は癌であった。わずか7ヶ月で再発した。医師は『(命は)あと3年でしょうね』と言った。死が目の前にぶら下がっていると感じた。しかし、先月、4ヵ月しかたたずに、三たび肝臓にガンがあることがわかった。わずか1年の間に3回もガンの発症。再発を繰り返すたびに、私の命の長さは短くなっていく。あとどれだけ生きられるのか。自分の命の長さを確認することは、私にはもうできなかった。自分は、これからの毎日、死と向かい合いながら過ごしていかなければならない。
  • 紹介された病院で内科の局所治療によって治療した。退院の時、主治医から『このガンは退治出来たが、肝臓内には、まだウィルスがいるので何時再発するかも判らない』と云われ、3ヶ月毎の定期的なCT画像検査を受ける事になった。その検査の都度「再発の不安」を胸に抱き診察結果を聞くまでストレスは筆舌に尽くし難い程だった。…その不安が、今年(2008年)の7月の定期検査で不幸にも的中してした。肝臓ガンが再発していたのだ。主治医から『今度は、体の前面から後面にかけての外科手術が第一の選択肢』との告知を受けた瞬間、私は、ガン再発の恐怖が現実となり顔面から血の気が引き、暫くの間絶句してしまった。そして数日間は放心状態だった。しかし、落込んでいたら病魔に負けてしまうと気持を切り替え、様々な治療法を探した結果、先進医療の粒子線を選択し、兵庫県の病院で8月末にその治療が成功裡に終了した。逆に言えば終了の日は、3度目の恐怖に慄く日々の始まった日でも有る。

4−3.肝臓移植の苦悩・被害

  • 手術前、パソコンで遺書を打った。移植手術は2004年3月に行われた。22時間半という大手術だった。姉も無事に手術が終わっており安堵した。私は呼吸が苦しくなり、再手術となった。血栓性微小血管障害という合併症の一つで重症と言われた。後にこの時のことを主治医に聞くとあの状態で助かった人は少ないと言われ、体が震えた。一週間後に意識が戻り人口呼吸器がはずされICUからHCUの部屋に戻った。また、血圧が低下し、再々手術となった。肺に水が溜まり、血が混じっていたためで、肺に管を入れる手術を行った。その後食事も出来るようになったが、3度目の手術から一週間後、縫合不全が起こり、鼻から小腸まで管を入れる日々が3ヶ月続いた。8月やっと退院することができた。
  • 肝動脈塞栓術やラジオ波焼灼療法を数回受けたが、癌を根治することが出来なかった。、医師から、先々肝移植を考えなければならないとの説明を受けた。病院を紹介され、平成20年1月に受診し、約2時間半の詳しい説明を受けた後、脳死肝移植の登録をした。しかし、その後待っても脳死肝の提供はなく、そうしているうちに、私の肝癌の数が増えてきた。そして、あと1年しか肝臓がもたないと告知された。そのため、私は、生体肝移植手術を真剣に考えた。私は、妻にドナーとなってもらっていいものかどうか悩んだ。そして、家族のためにもなるんだ、と自分に言いきかせ、妻の好意に甘えることとし、生体肝移植手術を受けた。手術は18時間を超える大手術だったが、無事に終わり、妻とともに退院することができた。しかし、これからも、拒絶反応や感染症等に留意しながら免疫抑制療法や食事療法を続けていかなければならず、精神的にも経済的にも相当な負担を覚悟しなければならない。

4−4.莫大な経済的負担/経済的損失

  • 私は毎年入退院を繰り返しています。当然、会社を休み収入もダウンしている。毎月の医療費でどれだけ家計費が圧迫されているか知れない。
  • 生体肝移植の場合、抗HBs人免疫グロブリンを大量に投与する。1本4万円で入院中、退院後、現在も静注している。昨年(2008年)2月29日付で保険適用になりましたが、莫大な費用がかかりました。退院後、それだけで毎年100万円以上かかった。退院後、1回で5本とか4本とか打った。現在は3本打っている。ネオーラルという免疫抑制剤も一生服用し続けなければならない。1日2回各1錠、30日で約1万円弱かかる。これが死ぬまで続くのかと思うと、今後の生活に不安を抱かざるを得ない。
  • 平成21年2月に生体肝移植手術を受けたが、退院日までの治療費の自己負担額は660万円にも及んだ。そして、現在は、免疫抑制療法の薬代として3万7000円、再発防止のための抗HBs人免疫グロブリン製剤ヘブスブリン2瓶の静脈注射代として2万4000円、合計6万1000円を毎月支払わなければならない。年間では73万2000円にもなる。

4−5.本人・家族の苦しみ・死の恐怖

  • 妻に癌再発のことを話した。妻は、『治療して、またガンをやっつけましょう』と言ってくれた。妻の笑顔は、こわばっていた。そして、それ以上、お互い何も話をすることはできなかった。ある晩のこと。夜中、ふと目が覚めると、隣の布団から声が聞こえてくる。枕に顔を押しつけて泣いている妻の声だった。私は、これまでの人生を思い出した。5年前に個人タクシーをはじめるまでは、自分のやりたい放題に生きてきた。何度も商売を替えた。妻には、何かと心配をかけてきた。心休まる日などなかっただろう。一緒にゆっくり買い物に出かけた記憶もない。両親を送り、2人の子も巣立っていき、個人タクシーを営みながら、ようやく妻と向き合って生きていこうと歩みだしたばかりだった。妻は、夫婦水入らず、のんびりと老後の生活を送ることを望んでいた。妻の望みは、たまには近くの温泉にでも行けたらいいねという、それは本当に小さなものだった。しかし、わずか7ヶ月でガンを再発してしまった私には、その小さな望みですら、叶えてあげることができない。これから、私は、入退院を繰り返し。最後まで妻に安らぎを与えてあげることができないのだと思うと、申し訳ないという気持ちでいっぱいだ。
  • (癌の治療が終わって)退院後は癌再発の恐怖との戦いの日々だ。4週間に1回の割合で検査を受ける。検査の前は癌が再発しているのではないかと不安でたまらない気持になる。治療もできないような癌が再発しているのではないか、治療できたとしてもまたあの辛い治療を受けなければならないのか、と悪い方向ばかりを考えてしまう。検査で癌が再発していないことが確認されるとほっとする。しかし、すぐに次の検査までの不安が始まる。この繰り返しだ。いっそ早く死んだ方が楽かもしれないと思う。仕事も辞めた。もはや、以前のように年間300日を出張先で過ごす生活を送る自信はなかった。